モン・サン・ミッシェル:山門の地

モン・サン・ミッシェル遠景(車中より)

福岡に提言! 海の中道にでっかい城を建てよう! そしたら、もうモン・サン・ミッシェルなんか怖くない。なぁに、今から作ったって、200年後には文化遺産になるんだから。へーきへーき。元は取れますよ、旦那。

冗談はさておき、モン・サン・ミッシェルはかつては海の中道と同じように、海の真ん中を突き抜ける道の先にあったらしい。最近では泥で浅瀬になってしまい、年に一度の大潮の日にしか海の中道にならぬらしいが、もともとはそういう土地だったとのことだ。

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モン・サン・ミッシェルのいいところはあの「ずどぅん」な感じであると言えよう。バスの中で他の客の「見えた」という報を耳にして、窓の向こうを眺めると、「ずどぅん」とモン・サン・ミッシェルが見える。平原のど真ん中に、こんもりと、あるいはにょっきりと、生えている。見まがうことのない、あれこそモン・サン・ミッシェル。おかしいのは、真っ平らな草原に、突然「ずどぅん」とそれだけがそびえ立っているところだ。違和感がある。蒼天から落ちてきたみたいに、平原のそこだけこんもり岩山になっている。奇矯だ。

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その名前はどう考えてもモン・サン・ミッシェルが正しい。フランス語で「モン」は山、「サン・ミッシェル」が聖ミカエルであるから、これはもう、「モン」「サン・ミッシェル」つまり「聖ミカエル山」に相違ないのである。それについては、私の中の第二外国語フランス語の知識が保証している。にもかかわらず、あのこんもり、ずどぅんな形をみると、私の中の母国語を愛する部分が、無意識の修正をかけてくる。あれは「山門・ミッシェル」ではなかったか、と常に問いかけをしてくるので、これが実に混乱する。こうして書いていても、どちらがどちらだったか、見分けがつかぬ次第である。サンモン、いや、モンサンだったか、まぁどちらだか分からぬ場合はミッシェルと気軽に呼び捨てれば楽かもしれない。

ちなみになぜ当地にミッシェルの名前が付いているかというと、かつてミッシェルの夢のお告げでここに修道院を建てることになったからだという。坊さんの夢に登場したミッシェルは「約束の印に」その坊さんの頭に指を当てたとされており、現在残っている坊さんの頭蓋骨(らしきもの)には、指の跡である穴が残っているという。一方的な約束の印が頭蓋骨穿孔手術麻酔抜き(寝ているとはいえ)というのはあんまり有り難い気がしないが、そこはそれ、ミッシェルと坊さんの仲だから許されるということであろう。俗人は真似しない方がいい。

頭蓋骨穿孔手術なう。

ミッシェル観光で最悪の部分は、その名物料理だろう。オムレツだ。「名物に旨いものなし」とはよく言ったものだが、あれほど不満の残る名物料理もあまりない。卵の泡を食っているようなもので、腹持ちがしないし、食った気がしない。

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オムレツ

ツアー客は「またしてもオプショナルツアーの食事が不味かった」と不平たらたらだが、しかし公平に見れば、あれはツアースタッフの責任というよりも、ミッシェルの責任である。土地に行けば名物料理を食べる。これは自然のことであって、それが著しく不味いというのは、スタッフにはいかんともしがたいことだと思う。

まぁ店のサービスが悪かったのは、ちと問題ではあるが、何十人もの日本人に同時に飯を食わせる都合上、ココロに余裕がないのは致し方ないかもしれない。いっそ昼食はツアーにつけずに、自由行動時間内で食事を自由にとるようにすればバラけていいのかもしれないが、それはそれでまた英語のできぬ人から不満が出るのだろう。団体行動の限界と諦めることにする。

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我々が到着した時には空は青く、日がさんさんと照り輝いて快晴だった。我々が頂上部分の修道院を見学し、そこを出たとたん、大雨が降り始めた。あられも降ったという。いったい、ミッシェルは何を怒っているのか。やっぱ新婚カップルが修道院内でケンカをしたことが不味かったのか。外国人の新婚夫婦間のいさかいに介入するほどヒマなのかミッシェル。それとも外国人団体が自分トコの名物料理をケチョンケチョンにけなしたのが気に障ったのであろうか。

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バスに戻っても雨は降り止まず、結局バスがオンフルールに戻るまでパラパラと降り続けた。

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現地ガイドのOさん(日本人女性)は、バスの往路も復路もずっと語っていた。観光地、名産物の話から、フランス人の生活、土地の民話に至るまで。この地方では「ゲランドの塩田」が有名とのことで、塩の大切さを謳った「ロバ皮姫」の民話があるという。

領主に3人の娘がいて、領主が「この世で最高に価値のある物」を尋ねる。上の娘二人は空気を読み、そつなく「父親」と答える。末の娘は空気が読めず、「塩です」と。 父親は大人げなく怒り、末娘は城を追い出され(『リア王』的標準展開)、姫はロバ皮をかぶって(ってその理由がわからんのだが身分を隠したかったのか)隣の城の小間使いとなる。一人で川でロバ皮を脱いで水浴びをしている時に王子に見初められる。指環をもらう。 王子はその後、川で見かけた女を求め、国中の女を捜すが見つからない。城の小間使いである姫は王子にもらった指環をスープに入れる。めでたくロバ皮姫は発見され、婚礼となる。 婚礼の式には何も知らない隣の領主父親も呼ばれる。領主は自分の娘が婚礼の主役だとは気づかない。姫は父親が来たのを見てとって、かつての仇、思い知れとばかり、婚礼の料理すべてを塩なしで作らせる。父親に「今日の料理はどうですか」「物足りません」「塩が入っていませんから」そこで領主は自分の娘と気づく。やんややんや。

……塩の大切さをバカ親にわからせたのはいいが、どうも話に一貫性がないようだ。塩とロバ皮になんの関係があるのか。彼女の苦労話に塩が絡まないので、今ひとつ説得力がない。彼女が王子に見初められたのは、塩の価値を知り尽くしていればこそ、彼女の作る料理は塩加減が絶妙で、王子はそこに惚れ込み……となって初めて物語が一貫して塩の大切さを訴えかけてくるのではないか。

あるいはこんな話はどうか。彼女は塩を使いこなす塩マスターであり、あらゆる塩は彼女の味方。彼女が一声かければたちまち城中の塩が彼女の号令に従って人を襲い、軍勢をも飲み込む。塩の力を以てしてロバ皮姫は王子の城を征服し、そのまま隣国に攻め入り、父親を捕虜にしてしまう。領主は自分の娘が敵軍の大将だとは気づかない。父親が牢獄で食べる食事は塩抜きでとても不味い。そこで姫がやってきて一言「今日の料理はどうですか」「物足りません」「塩が入っていませんから」そこで領主は自分の娘と気づく。嗚呼運命の皮肉。やんややんや。

ほら、この方がよほど教訓がわかるではないか。塩を畏れよ。塩をバカにするな。塩を崇めよ。

ところで、「今日の婚礼の料理をすべて塩なしで作りなさい」と無理難題を命じられた料理人が「やったるでー!」と一念発起、塩なしで大変に美味しい料理を作り上げた場合には、またちょっと結末が異なる。その方が昨今のグルメ漫画ブームにはマッチするかもしれぬ。

仲直りの種になればと、大雨のサンモン・ミッシェルで塩キャラメルを購入。帰りのバスの中、チョコ嫌いで塩チョコ好きのカミさんと塩キャラメルを分け合って、なんとか仲直り。ほら、この方がよほど教訓がわかるではないか。塩を畏れよ。塩をバカにするな。塩を崇めよ。

塩キャラメル 塩キャラメル

ちなみに、シードルやお菓子などは、往復のサービスエリアで買った方が、ミッシェルで買うよりもよほど安かったことを書き添えておく。