「How may miles to Babylon?」解釈

5月22日の日記のタイトル「馬喰までは何マイル?」はマイミクさんの日記のタイトルのパクリだが、本当の原典は「バビロンまでは何マイル?」というマザーグースの歌である。

How many miles to Babylon? Three score miles and ten. Can I get there by candle-light? Yes, and back again. If your heels are nimble and light, You may get there by candle-light.

この「Three score miles and ten」のくだりの正確な記述を引用したかった(*1)ので、webでこの詞を検索してみた。ところが、そこに付けられているコメントというか解釈を見ていて、どうにもなんだか収まりのつかないキモチになってきた。

なんか、どこの誰だかわからない人間が思いつきで書いたものが、web上の検索によって発掘され、それが引用に引用を重ねて妙な集団催眠的説得力を持つに至っているような気がする。(*2)

というわけで、この詞に対する私の解釈を書いておきたい。といっても私の意見もただの「思いつきの一つ」に過ぎず、とりたててきちんとした論拠や比較研究の成果があるわけではない。ただ、ちょっと現状webで流布している「思いつき」が偏っているように思えるので、カウンターとして書いておきたい。

繰り返すが、ここに書いている内容はあくまで私個人の所感であり、きちんとした研究に基づいたものではない。むしろ、きちんとした英文学研究者がこの詞をどのように解釈しているのか、その筋からのコメント・修正が付くことを請い願うものである。

さて、この詞について、一般に「Three score miles and ten」つまり「70マイル」という表現が「人生の歳月」を表しているということが言われているらしい。これはまぁ、ひとまずよしとしよう。

まず気になるのは、「by candle-light(またはby candlelight)」という表現を「夕方までに」としている解釈がよく見受けられることだ。これはわたし的にはちょっとわからない。byの後に時刻・時点を示す単語があれば、「~までに」という意味になるのはわかる。「by six(6時までに)」「by day’s end(その日の終わりまでに)」「by evening(夕方までに)」「by noon(正午までに)」だ。いくらでも用例はある。

しかし「by candlelight」を「夕方までに」と考える理由があるのだろうか。そもそも、英語圏では普通に「by candlelight」と言えば「ろうそくの灯りで、ろうそくを灯して」という意味で使われているのだ。そんなことは「"by candlelight"」でググってみればすぐわかる。「Carol by candlelight(ろうそくを灯してのキャロル)」といった例が並ぶはずだ。『英辞郎』にも熟語として「by candlelight」は「ロウソクの明かりで、ロウソクの光で」とある。それを敢えて「夕方までに」とする根拠があるなら、教えて欲しい。

ここでは普通に「ロウソクの光で、ロウソクを持って」と解釈する。

次に、「バビロン」を「死の象徴」として考える解釈を見かけるのだが、そこにも疑問を感じる。「70マイル」が「人生の歳月」を意味するのだとすれば、そのゴールは死だ、と考えるのはわかる。だがちゃんと全体を普通に読んだ時に、それでは意味が通らない。

もう一度、最初から、シンプルに、何も考えずにこの詞を読んでみよう。この詞が完全なナンセンスであることは明らかだ。バビロンまで70マイル、およそ112km。遙か遠い距離である。その距離をロウソクの灯りで行けるだろうか、と質問している。ロウソクの灯りで、というのだから、時刻は夜を想定すべきだ。また、馬や自転車(笑)に乗ってはロウソクは消えてしまうだろうから、イメージとしては歩きを想定しなければならない。夜に、徒歩で、ロウソクの灯りだけで、70マイルを行けるだろうか? 70マイルは遠すぎる。(*3) たどり着く前にロウソクが消えるだろう。想定される答えは当然「No. 不可能。」だ。

ところが詞は「Yes, and back again.」と返す。「できるとも、その上また戻ってくることも」と言う。行くだけでも不可能と思われるのに、往復も可能だと主張するのである。ただし「If your heels are nimble and light」という条件をつける。これはナンセンスで、「ジャンプ力を鍛えれば、月にも触れる」というのと同じだ。そんなジャンプ力は身に付くわけがないから、現実的にはやはり不可能なことに違いない。

つまりこの詞は全体として「バビロンに到達することは不可能だ」ということを繰り返している。そのバビロンが「死の象徴」であるとは思えない。死には誰でも手が届くのだから。

バビロンはキリスト教圏では「退廃都市の象徴」ということだが、退廃には繁栄がつきものだから、ここではバビロンは「繁栄、理想」の象徴と考えた方がよほど全体の意味が通る。

理想をつかむまでは70マイル(≒70年)という歳月がかかる。だが当時70年は到達困難な老齢だったはずだ。だから、そこへ行く前に「ロウソクが尽きる」のであって、むしろ人生を象徴しているのはロウソクの方ではないのか。 「人生が尽きる前に理想に到達できるかな」という問いに対して「もちろんさ、ただし君が十分に能力があれば」という構造なら、納得できるのではなかろうか。

ただの戯れ歌にこれ以上は深読みのしすぎの感もあるが、「行って帰ってこられる」というのは、繁栄を極めた上で、衰退することだってできるだろう、と言っているようにも思える。もちろん、「If your heels are nimble and light」なら、の話。

以上私の所感だ。素人のただの思いつきなので、専門家から見ておかしな点等をご指摘願えれば幸いである。

【脚注】 (1) 私の記憶の中では「Three scores and ten」になっていた。 (2) 「もしかしたらこんな意味にもとれるかも」→「webでこういう説を見かけた」→「webでこんな説が流布している」「webではこういう説が多いようだ」という変な進化がかいま見える。判断なしに引用を繰り返すのは、危険だということ、自分自身気をつけなくてはと思った。 (*3) ましてや雨の中ともなれば。