Living Poet's Society/もがみたかふみ大いに詩を騙る

私のように詩心のない人間が「詩を語る」というのはナンセンスだ。むしろ「詩を騙る」という字を当てた方が、なんぼかリアリティがあるというものだ。

今週、弊社では大量出荷があり、部品が足りなくなったり(半分くらいわしの責任)、梱包材が足りなくなったりするほどなのだが、特に緊急度の高い出荷があり、その部品が入荷した日には製品課社員総出(プラス技術I氏などのお手伝い)で夜遅くまで加工作業に従事している。先日は、私に所用がある日に部品が入荷してしまい、みんなに申し訳なく19時で辞したのであるが、また23日もそのようなことになるのではないかと心を痛めていたところ、部品の入荷が1日遅れ、24日に伸びた。どんな神さまが作用したものか、まったく有り難いことである(会社にとっては出荷を遅れさせようとする悪魔だが)

会社を19時に辞して、赤坂ポートカフェへ。今日は谷川俊太郎氏を囲んで「詩を語る」イベント。ネットで谷川さんの名前で検索してみたら、「ほぼ日」の「谷川俊太郎は故人だと思っている人がいるようです」という記事にぶつかった。以前、ポートカフェでもそんなようなことを言っていた人がいた。生きてますよ。

詩心のない私の中で、触れたことのある谷川氏の作品というと、翻訳のものが多い。一番最初に触れたのは、たぶん、マザーグースの絵本だ。次がツル・コミックスの『Peanuts』。今でも我が家にはツル・コミックスがけっこうたくさんある。考えてみると私の英語のかなり原初の部分に食い込んでいたわけで、今まであんまり意識してこなかったが、すごい人に会ってしまうのだな。特に対訳形式になっていたツル・コミックスの『Peanuts』は英語がわかりはじめた小学校~中学校の頃に、とぎれとぎれに解読して英語への関心を養った。

谷川さんは――会の中で私はしばしば混乱したが、後でこっそり奥付を確かめたところ、やはり[tanikawa]が正しい。[tanigawa]ではない――何かの写真で見かけた通りの風貌で、たぶんそれはPeanutsの「訳者紹介」に載っていた写真だったと思う。

会は質疑応答のような形式で進む、と案内に記載されていたので、往路の電車の中で質問をこさえてきた。私はそもそも、詩人でもなければ、さほど詩を読むわけでもない(他にもそういう参加者が若干一名いた)のだけれど、この歳まで言語体験を重ねてきたのは伊達ではなく、身体の中をあちこち探ってみると、一つや二つの詩的要素くらいはあった。用意した問いは「英語の詩と日本語の詩、共通要素というのは何でしょう?」というもの。日本語と英語、まったく違うフレームワークに基づいた2つのpieceが、どちらも「詩である」と認識されうるのは何故なのか。これに似た議論は大学の比較文学で聞いたことがあったのだけれど、谷川さんの回答を聞いてみたかった。谷川さんは「それは難しい問題なんだけれども」と前置きした上で、ほとんどの言語には詩が存在すること、それはおそらく、人間の言語に「大文字のPOESY」とでも言うものが内在するのではないか、ひいては全ての人類に「POESY」が内在するのではないか、とのことだった。これは実に納得できる。というのも、言語学の分野では「大文字のGRAMMAR」とでも言うべき「Universal Grammar」というものが人間の全ての言語、全ての脳に存在する、とされているからだ。人類のすべての言語は、実は共通の論理構造を持っているという。だから、すべて人間は一つなのだ。

他の人の話を聞きながら思いだして、もう一つぶつけてみたいと思った質問は、「インスピレーションに頼りますか?」というもの。アイルランドで見たイェイツ展にイェイツが答えたアンケートが残っており、イェイツは「インスピレーションに頼るか?」との質問に「Never」との回答を答えていたのだ。そのことを話すと、谷川さんは「たぶん、彼はインスピレーションに頼るということを認めたくなかったのじゃないかな。彼のような詩人がインスピレーションに頼らないはずはないんだから」と答えてくれた。インスピレーションに頼ることが恥だとされた時代もあるのだという。なるほど、そういう時代性も回答に影響している、というのは考えてみなかった。なるほど。 いろいろ知的好奇心を刺激される夜でした。

メモ。 ジャック・プレヴェール シェイクスピアソネット 吉田健一(→Wikipedia)訳 辻征夫 中江俊夫『魚のなかの時間』 中井久夫訳のギリシャ

■一年前の日記(船旅中です) 2008年06月23日 恩田陸『いのちのパレード』
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