もっと駄作を作れ

先日、クリエイター職志望のAさんと話をした。Aさんはまだタマゴな割にはいい結果を出していて、傍目には順調そうに見える。ところが「満足のいく作品が作れない」「売れる作品と作りたい作品が違う」ということで悩んでいるらしい。私が「作品を見たい」と言うと「人に見せたいと思う作品が今はない」とも言っていた。クリエイターの中の人も大変だ。 ふとこんな言葉を思い出した。何か「小説の書き方」的なハウツー本で読んだ言葉だ。誰だったか、そこそこ売れている国産作家の言葉だったように思う。 「小説、特に長編小説を書く時には、途中でどんなに駄作だとわかっても、最後まで書き上げなさい」 作品を書いていて、半分で、あるいは4分の1もいかないうちに駄作だとわかってしまうことは、往々にしてある。そんな時でも辞めてしまわずに、最後まで書きなさい、というのだ。そうしなければ、作品を書くための集中力、持久力が養われないのだという。 駄作だとわかっても書き上げるというのは、正直、かなりの苦痛だ。そんな駄作を書き終わっても達成感などないし、人に見せたくもならない。書き上げるまで煩悶する時間が、ただただ無駄のように思われる。 でも、最後まで書かないといけないのだ。そこに山があるからだ。 そういえば、私が最後に書きかけた作品は『塔(仮)』だ。そして『塔(仮)』を途中で辞めて以来、作品らしい作品を書いてない。まさに上に述べた状況に陥ってしまった気がする。一つの作品を「これは駄作だ」とわかって辞めてしまった。そこで駄作を書き続ける気力が折れてしまったのだ。「あれより上を書かなくては」という妙な力みが邪魔をする。「フった男よりいい男を選びたい」というのと同じだ。なまじなところで満足できなくなってしまう。 落ち着いて考えてみると、クリエイターというのは駄作を生み出す商売だと言えなくもない。著名作家の作品をリストにして全部並べてみるといい。「面白い作品ばかりで、ハズレは一つもない」なんて作家はひどく希有だ。「これとこれは面白い。これは最悪」といった浮き沈み、駄作があって当然だ。そんな駄作でも、世の中に送り出さなくてはならない。 野球の世界になぞらえてこんな言葉がある。 「3割打てばスラッガー(強打者)」 強打者と言われる人たちも、結果を残せるのは3割で、残りの7割は失敗している。三振だのアウトだの、冴えない結果の方が多いのだ。ベーブ・ルースはホームラン王だが、同時に最多三振記録の保持者でもあった。もし彼が「これ以上三振を増やしたくない」と打席に立つのを辞めてしまったら、ホームラン王にはなれなかったのだ。 たしかにクリエイター自身の基準で言えば、自分の作品の上半分は良い作品で、残りの下半分は駄作ということになるかもしれない。それどころか、自分の作品が全部駄作に見えることもあるだろう。でもそれは世間の基準とも違っているし、むやみに基準を上げていくと作品が作れなくなってしまう。 自分はタマゴ、初心者、アマチュアなのだと割り切って、謙虚に駄作を送り出してみる。恥ずかしながら人に見せてみる。そうやって駄作を7割作っていれば、いつか残りの3割がうまく行く。人生それでいいのではなかろうか。 駄作を送り出す体力が、長いクリエイター生活には必要なんじゃないかと思う。 歯を食いしばって駄作を作れ。もっともっとたくさん作れ。それだけが、傑作への道だ。 ……いやあの、はい、作ります。わしも。 クリエイターの中の人も大変だわ。

(1)「小説の書き方」的なハウツー本 :私は普段、小説のハウツー本は参考にしない。自分のやり方が好きだからだ。ただ、まったく読まないかというと、そうでもない。立ち読み程度にはパラッと見る。 (2)自分はタマゴ、初心者、アマチュアなのだと割り切って、謙虚に駄作を送り出してみる。 :エッセイ「イバラの道」や、『徒然草』第百五十段「能をつかんとする人」も参照のこと。